身体論の解体と再構築 12

では今回は食について少し語ってみる。

まず食についてだが、私の食に対する信条は、

いま現在は極めて「イイ加減」というポリシーに

収斂していることを、まずここに告白しておく。

私は19歳の時に、淡路島の医療機関の

断食道場で2週間プログラムの断食を経験した。

この際の私のプログラムは水切り断食でも、

まったく何も食べない絶食でもなく、

断食中の最初の1週間であっても、

ビタミン剤を摂取し、水分だけはどれだけ摂ってもイイという

細胞生理学に合致した医療的なプログラムであった。

そして、毎日、体重や血圧を正確に計り、

医師の診察を受けるというものだった。

医師の診察と言っても、私の場合は特に疾病は無かったので、

体調はどうか、という問診程度の診察であった。

そんな万全の医療体制のなかでの断食であったが、

断食を開始して数日にして、うっかり私は寝ている状態から

いきなり立ち上がった際に、脳貧血になりぶっ倒れた。

もともと痩せていたが、断食を始めると、

また体重のグラフが右肩下がりに急降下で極端に痩せた。

痩せるのが目的で訪れていた関西方面の御婦人が

わたしのグラフを見て、とても羨ましがったことが

いま脳裏によみがえる。

果たして私は断食で痩せて体調が良くなったのか?

正直、貧血を起こしてからは、フラフラだった。

しかし、フラフラしていても、

たしかに脳が冴えてきたことは実感した。

読書室の本を暇なのでむさぼり読んでいた。

しかし、いかんせん、腹が減っているわけで、

とにかく頭のなかは食べ物のことしかないわけだ。

断食が終わったら、アレを食べたい、

家に帰ったら、しこたま、アレを食べよう、と

頭のなかにはいつも食べ物のイメージしか湧かなくなった。

よく断食をすると宗教的な悟りで生き仏のような崇高な精神が

宿るなどというが、およそそんな崇高な精神など

私には降臨せずに、ただひたすらに頭のなかには、

ステーキだの、チーズがとろけてのったこんがり焼いた食パンだの、

そんな食べ物の絵がつぎつぎに浮かんではヨダレが出て

そのツバをゴックンする、というまことに餓鬼の権化と化していたのだ。

1週間の断食を終えて復食の1週間がスタートした初日の朝、

配膳してくれた食堂のおばちゃんが、もう聖母マリア様のように

輝いて見えたね。そのホスピタリティー溢れる優しい言葉や振る舞い。

それで復食スタート時に食べたドロドロの全粥が

旨かったかどうかの記憶は定かではないが、

なぜか食べながら涙がこぼれたことは記憶している。

とにかく、おばちゃんの態度から、なにから食膳にまた

ありつけたそのすべてに安堵し、嬉しかったのだ。

そして、その時に強く感じたのは、コレでまた普段通りに、

食べることができるという安心した思いだった。

2週間のこの断食プログラムで私が学んだことは、

ヒトはモノを食べなければ死ぬ、という当たり前の事実だ。

そして高僧のような崇高な精神が宿ることはなかったが、

わたしなりに感じた考えをもしも哲学というのなら、

その悟った哲学とは、巷間言われているような

「ひとはパンのみにて生くるにあらず」という格言とは

まるっきり真逆の

「ヒトは食べるためのみに生きる」という

まことに浅ましい私のような餓鬼にふさわしいポリシーだった。

ヒトはモノを食べなければ脳の意識活動のための

糖分が供給されなくなり、脳がもしも貧血になれば、

即座に意識を失うのだ。

その時に打ち所が悪ければ、即死する危険もある。

わたしはこの断食中の脳貧血で昏倒した経験により、

食べることがいかに大事か、を悟ることができた。

あの断食を経験してから、もう28年間の月日が過ぎた。

この断食後には、マクロビオティックのヴィーガンを

1年半ほど経験もした。

そうして断食やマクロビの穀菜食のみの食も経験して、

今わたしの食のポリシーは「イイ加減」という

この一言に落ち着いたのだ。

ここまでを俯瞰してみると、最初からイイカゲンな皆様にしてみれば、

随分と回り道をしたと思われるお馬鹿な道程だったと

つくづく反省する次第だ。

しかし、このわたしの「イイ加減」は、

たぶん、それだけ回り道をしただけの事はある、

と我ながら自負している。

「イイ加減」とは言っても、

まったく、なんでもイイというわけではない。

例えば食べる量だが、これは腹いっぱいに食べたい時には、

もう腹が七福神の布袋さんのように、

腹の皮がはちきれんばかりに食べる時もあるし、

腹八分の時もあるし、少なめにご飯を盛る時もある。

ようは、その時、その時の体調と気分を

自分でモニタリングして、もしも気分も体調も絶好調で、

腹いっぱいにそれこそ布袋っ腹(ほてっぱら)食べても

大丈夫そうなら、もうなりふりかまわずに思いっきり食べるし、

いまの体調だと腹八分で抑えておいた方が無難と判断すれば、

そうするし、何か気分がすぐれなかったり、

気になることがあったり、あるいはパフォーマンスを

最大限に引き出すイベントがあったり、また旅行などで

出かけるまえなどには少食にする、とまあこんな具合に

臨機応変に食べる量も自分でアレンジして調整することを称して

「イイ加減」なのだ。

また食べるモノの質だが、これも食べる量と同じく、

あらゆるモノを食べるが、そこにはそれぞれの

臨機応変を加えている。

いわゆる、決めつけ、思いこみ、の

「コレこそが究極の食の黄金律〜!」的なキャッチコピーに

踊らされるようなチマタの出がらしメソッドの対極となる、

「イイ加減」食事法が今のオレ流ということだ。

ということで、だいたい、これで私の食のポリシーは

みなさまにご理解頂けたかと存じます。

細かいことにこだわると、太極を見失う。

しかし、細かいことに気を付けないと、

うっかり足もとをすくわれる。

木を見て森を見て、空も見て土も見て、

地球も宇宙も細胞のなかも見て、

「イイ加減」をつかむ。

これが食や身体操作のコツと私は睨んだ。

分子レベルの下敷きをもとに、

これからの応用編、大いに語ろう!

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2017.02.20 | | コメント(2) | トラックバック(0) | 養生クリエイター

コメント

<イイ加減>について感じたこと。


人はひとつのモノサシにこだわると自在力を失い

内在する本来の力を発揮できなくなる。

そして次第に心身の自由を失ってゆき、囚われ人と成り果てる。

決めつけや思い込みは一時の錯覚に過ぎず、心身を硬直させる。

さらに言えば、確固たる信念や目標を持つとは

バーベキューの串を脳天から突き刺すようなもので

「百害あって一利なし」というのが私の考えです。

常に自分自身の<ゆらぎ>と共に変化の波を友とすれば

楽に生きられるしストレスも少ない。

過去のモノサシを手放せば

世界は驚きに満ちたダイナミックな世界へと変貌する。

2017/02/20 (月) 22:13:19 | URL | 亡六爺 #- [ 編集 ]

亡六爺さんのこのコメントは永久保存版ですね。

まったくもってすべてに同意です。

ヒトのホルモンはわかっているだけで100種類を超えます。

これにサイトカインと神経伝達物質をホルモンにカウントしようというのが、

今の生理学の最新トレンド。

そうなると、ホルモンの総数は膨大なものになります。

このホルモンがなぜこんなにも多くあるのか?

と言えば、それは身心が常に細かくぶれるからです。

血圧も血流も体温もペーハーも酸素濃度も常に細かくぶれる。

もちろん気分はイヤな一言でも聞けば一瞬でぶれる(笑)

でも、そのぶれをまたもとに戻すことができるから

ヒトはこの環境が激変する地球で生きていられる。

そのぶれを補正するためにホルモンがこれほど多く装備されている。

ぶれるとは、振り子が動くこと。

振り子の動きとは命そのもの。

固定した振り子は振り子ではない。

命という振り子はぶれて動くことで生を得ている。

ホメオスタシス、ホメオダイナミクス、キネティクス。

ぶれる動きのなかに命が宿る。

ヘモグロビンは毎秒400兆個もの膨大な数がアポトーシス&リモデリングする。

とてつもない振り子が命のなかに動いている。

決めつけ、思いこみ、の固定した正論は結局はイレギュラーな反証や新発見により、最後は崩れ去る。

正論という石頭の勝ち組は生理学や生物学の世界には存在しない。

ただひたすらに天地自然を友とし師とする。

天地自然を羅針盤にすると、

天地自然は柔らかく可塑性に満ちて摩訶不思議でカオスでコスモスでフラジャイルだから、

人智で御す事は不可能だということを悟る。

すべてが科学や人智でわかるなんてこだわりを手放せば

きっとその先にようやく自由な思考が手に入る。



2017/02/21 (火) 04:45:04 | URL | 今村光臣 #- [ 編集 ]

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